源流部へは町の中心部から川沿いに1時間30分ほど車で遡って行かなくてはならない、最後に渓流が2つに分かれて斜度を増し、源流部は支流が多い渓谷へと変貌する。
二股右支流沿いには小さな山師の集落があったようだが、今は寂びれて人の気配はしない。廃れた民家の屋根にも庭にも草木が生い茂り、狭い段々畑の柚子の木には蔦葛がビッシリと覆い被さって、良く見ないと何を植えてあったのか分からないほどである。
その日は単独釣行であった、左支流の無名谷へ入渓するため集落入り口の三叉路を左へ車を進める。林道はダートに変り暗い素掘りのトンネルを抜けると遥か下方に渓谷の流れる音がする。
時刻はもう既に午前9時を回ろうとしている、先を急ぐけれど落石やら山から押し出した土石に邪魔されたり、木材の搬出後があったりで目的の無名支流についたのは10時30分になっていた。
本流出合から釣り上がり、使われなくなった森林軌道の橋を潜る、苔蒸した渓は水量豊富で小滝の連続であった。
魚影は薄いがそこそこの数がでたところで9寸をゲット、まだまだ上流にも魚は居そうだ、魚影に誘われるまま竿を降り続け小滝を越えて行った。もう水線を越えたと思われる場所に両壁の5m滝があってこれを直登できない、アメゴは棲息していた。
時刻は午後3時を回っている、未練はあるが経験のない奥部であるし撤退道を発見できてない、地図で見る限り滝の上は緩くなっているはずだが高巻くのは諦めて潔く納竿する。
中ほどまで谷通しで降りてきたところで左岸の上に伐採後を発見、少し下って急斜面を登ると山道があった、山道は出合まで順調に続いて楽勝で帰還できた。
思ったより早い撤退だった、朝来た林道を引き返す、木材搬出現場は片付いていた、トンネルを抜けて三叉路へ着いた時「もう少しだけ釣りたいな」と思い始めた。 三叉路を過ぎて右支流沿いの集落下を通過していると、ナンバープレートが付いた車が停めてあった、あぁこれは木材搬出作業員の車やな、泊り込みで作業しているのだろうか?。
適当な広場に車を停めて谷音を聞くと直下に瀬の音がする、早速植林を駆け下ってみると美味しそうな谷が続いているではないか・・・。5寸から6寸に7寸が混じる感じでポンポンと調子良く釣れて来る、時間が少ないので瀬を飛ばして竿を出していく。なんぼでも釣れるので夢中になっていた。
右手で竿とラインを掴み左手で岩を押えて乗り越えようとした時、右人指し指に激痛が走った。指先を見ると釣り針が刺さっているではないか・・・「いてててて・・・」竿先がまだ曲がったままで自分の指を釣っている状態である、直に竿を放せば良かったが焦って右ポケットのハサミを探った時、竿先が木の枝に絡まった、やっとハサミでラインを切ったが、激痛は収まらない。左手で針を掴んで力を入れてみるが外れない・・・。ペンチがあればチモトを切り飛ばして針を逆に回しこむように差し込めば外せるが、今はペンチがない。何回トライしても6号の針は小さすぎて思ったように力が入らない。
あまりの痛さに負けて針を外すのを諦めたけど問題は解決していない、気が付くと時刻は6時を回っているではないか、もう暗い。
車へ帰還した頃は完全に帳が降りていた。泣いても問題は解決しないので、針が刺さったままとりあえず家に帰るしかない。この水系特有のクネクネの道、ハンドルを右に左に切り返すと時折針が何所かに触ってその度に激痛が走る「ギィエーーーーッ(TT)」。
やっと国道に出た、ここからはほぼ片手運転でOK、家に帰り着いた時は9時を回っていた。
蛍光灯の明かりで良く見るとかなり深く刺さっている、チモトを切って逆に押し込んでも針先が出そうになかった。
コップに焼酎を注ぎ針の刺さった指を差し込んで100数えた後、焼酎を立て続けに?杯煽って泥のように眠った。
翌日は出勤だったので痺れた指先を庇いながら車で出社した、事務所前の外科病院の受付けへ行くと「どうされました?」と聞かれた。「釣りをしていて針が刺さりました、反しが付いているので外せません」と返事すると、「それでは外科で処置しましょうね、4階に上がってください」と言われた。
4階へ行くと同じような質問を受けたので同じように答えると、「院長先生を呼んできますのでお待ち下さい」と言われた、針を外すのに院長が出てくるのかいな・・・。
30分ぐらい待っていると見覚えのある老紳士が白衣で現れた、もう80歳はとっくに過ぎているハズである
「どれどれ、どこにささったかのう、ふむふむこれはいたいやろねえ、ゆびさきはしんけいがしゅうちゅうしちゅうけにね・・・それにしてもまーこまいはりやけんどなにをつるのかな?このまえにもさかなつらんとみみをつったひとがきたけんどかえしがあるけねーなかなかはずれんわねー(ニヤニヤ)・・・。」
それではしゅじゅつをしますのでうわぎをぬいでください」。・・・「ナッ なにーーーーーっ! シュッ シュジュチューーーー(TT)」
まさか手術を言い渡されるとは思ってなかったので心の準備ができてない、不安なまま手術台に乗ることになってしまった。
院長が看護婦を呼んでいる、呼び集められたうら若い看護婦は3人であった、かなり大がかりである・・・大丈夫かいな(TT)。院長が手術用品やら手順を専門用語を用いて説明している、どうやら手術の実習を兼ねているようだった。
手術は無事終わり、手厚く包帯を巻いてもらった、「とおかかんはみずでぬらしたらいかんよ(ニヤニヤ)」と針をいやいや釘を刺されてしまった。三日後にもう一度傷口の処置をするので来院するようにと念を押された。
「この針どうしたらよいでしょうか?」と看護婦が院長先生に聞いている、「びょういんにつりばりはいらんやろ、このひとにもってかえってもらうのがえいんじゃないの」と院長先生がジョークをかましたのだが、若い看護婦には受けなかったようであった。そして6号の小針を丁寧に油紙で包んだうえに薬袋に入れてくれたのだった。
大滝の渕に立ち込んで釣っている会長に声をかけるが聞こえていないようだ、傍らに古い祠があった、会長が竿を仕舞い「なんだか怖い感じやな」と言った、確かにそんな感じでなんだか寒気がする、とても長居をする気になれず急いだ高巻きになった。
大滝の上でも8寸が出て遡行に力が入ってどんどんと釣り上がっていった、最後の二又で納竿して撤退道を探したが見つからなかった。
両斜面は切り立った所が多いので谷通しかと考えたが、あの祠のある大滝を通過するのは嫌な感じだったので250m上にある尾根に取り付いて尾根筋を撤退することにした。
この250mはとてもキツかった、休憩を何度もしながらやっとピークまで登り詰めたのは良かったが、寝不足の会長のフクラハギに異変が起こった。最初は片足を交互に攣っていたようだが、伐採後を過ぎて下降に入ってからは両足を同時に痙攣が襲うようになり、激痛の600m下降となってしまったのだった。
一週間後、まだ懲りない二人は3本上流の源流へ入渓した、前回足の痙攣に耐えながらも尾根から眺めたこの渓が気になって、次ぎの釣行計画を練っていたのである。
前日は良く睡眠を取ったので今回は万全の体調であった、途中のゴルにも安全に下降できたので快適な釣行であった。
上流へ行くほどに渓は緩やかになって遡行しやすい、水量も少なくなってもうそろそろ魚止めかと感じるのだが、アメゴの魚影は濃くなる一方、先週入った支流のアメゴとは明らかに違う、もしかしたら『在来種』かもしれない。
そんなことを考えながら上流を目指していると右岸に苔生した石積みの森林軌道跡を発見した、どうやら帰り道は確保できたようである。
いくら釣ってもなんぼでも魚が出て限が無いので、魚止めを見ずに納竿することになった。
納竿点から森林軌道跡とは別の山道があったがこれが諸悪の根源であった、この山道は水平に下流へ延びており歩けば歩くほど谷底から遠ざかる道でだった。山肌が崩壊したスッパ抜けではロープで確保して前進したが、何箇所も立て続けに現れる崩壊個所にこれまで経験をしたことのない危険を感じるようになった。
たまらず谷底へ落ちるように下降して大休憩、谷水に全身を浸してオーバーヒートを沈めた。ゴルの上からはしっかりした山道があり、無事に生還することができたのだった。
思ったより早く終わったので、指を釣った支流の源流へ様子を見に行き、山越えで朝来た道とは反対側から帰ることにした。素堀りのトンネルを抜けて三叉路へ着いたとき、突然赤いワンピースを着た黒髪のセミロングの若い女性が乗用車から降りて三叉路の谷側にある民家の庭へと入っていった。足元は黒いハイヒールであった、顔は見てない。
会長と顔を見合わせて異口同音「見たぁ~」。「見た見た」・・・「なんでこんなところにおるんやろ」、「お盆も近いことやし、墓掃除にでもきちゅうがじゃないの・・・」なんて言ってみたが、この草木深い偏狭の山奥に赤いワンピースとハイヒールはとても不釣合いである。
変に感じながらも指釣りの谷沿いに車を走らすと5分程で源流に掛かる橋に到着した、橋の下では7寸の魚影が見えた。峠に車を進めたが途中で道路が崩壊しており、山越えルートは諦めることになった。すぐさま引き返し朝来たルートで帰路につく、途中の三叉路にはもう車はなかった。
会長のスピード感溢れる運転で町まで出たが、女性の車に追いつくことはなかった。女性も用事があって車を降りたのだったら15分や20分は留まっていたはず、我々が峠まで往復した時間は多く見積もって30分ぐらいだった、町まで普通に走って1時間30分ぐらいだから一本道で追いつかないはずが無いと思うのだが?。
後日、会長と三叉路で見た女性の話しになった、「会長、あの日三叉路で確かに赤いワンピース見たよね」、「いんやー、白地に黒い水玉やったんと違う・・・ははは」・・・やって。
それにしてもオカシイナと思うけどなー、まさかトンネルを抜けて源流へ行ったなんて考えられないし・・・。
そして次の年、この渓谷の本流筋を遡行したとき大滝に拒まれて諦めて短い別支流へ再入渓した時、山鳥の飛び立つ音に驚いて足元を木に取られ、頭から谷へ落ちて顔面をしこたま打ってしまった。
ヘルメットのおかげで大事には至らなかったが、前歯に損傷があり歯がぐらついて完全に痛みが消えるまで3ヶ月もかかってしまった。その時に三叉路の民家を見に行ったのだが、庭には草木が生い茂って何十年も廃れたままになっている様子である。とても人が立ち寄って用事をするような感じではい。庭から直接谷へ続く階段が付いていたが、さすがに降りて谷を見てみようとは思えなかった。
奥山の深く切り込んだ渓谷、ここでは日常を離脱した何かを感じてしまう。
釣果:忘れた!!
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