中寺廃寺跡は大川山の西尾根の中腹にある。
寺は存在しないが発掘調査の結果、建物の柱を支える礎石や出土品が見つかった。出土品は平安時代の物とされ、1000年以上前の郷土を想像するに興味は尽きない。個人的には後に西隣で七堂伽藍を備え栄えた山岳時 尾ノ背寺廃寺との関係がどうだったのか?を知りたいところだ。
江畑道から中寺廃寺跡を経由し阿讃縦走路に出て大川山に登る計画だったが出発時間が遅れてしまい「中寺廃寺跡だけでもいいや・・・・」と地元ならではのお気軽山行となった。
江畑道登山口には車30台が止められそうな広い駐車場にパンフレット付きの案内板があって整備されている印象だった。登山口は30m程先にコンクリートの階段がついている。
江畑道登山口駐車場
江畑道登山口
最初の150mはソコソコ急な尾根道が続く、それを登り切ると緩やかな山道になり電力の鉄塔を横目に見ながら柞野道と交わり50m弱の階段の先に展望台が見えてくる。
最初はソコソコな急登が続く
柞野道と交差
展望台
展望台は高松から三豊までの讃岐平野一円が見通せ讃岐一の展望と云う形容詞が付いていたが眼下の讃岐変電所は四国中の電力送電線が集中する場所なのでこの標高では目障り感が否めない。
展望台から讃岐平野が一望できる
丸亀平野から中国山地
正面:満濃池 右:大麻山 左:飯野山
南東に大川山
中寺廃寺跡はコンパクトなイメージを持っていたが3つのゾーン(仏・祈・願)は柞野川支流の源流域を跨ぎ広範囲で歩き甲斐があった。
願ゾーンに向かっていると立派な建物が建っていた。トイレと悪天候時の避難場所の説明があったが自慢のバイオトイレは閉鎖中・・・・折角大きな予算を使い整備された物であれば訪れた人に利用されてこそ価値があるのであって「作ったぞぉー!!」だけでは何の役にも立たず予算の無駄になってしまう。たとえ山奥の場所であっても定期的なメンテナンスをお願いしたい。
願ゾーン
一辺が1.2~1.5mの石組遺構が16基分布し周辺から平安時代の遺物が出土している。『三宝絵詞』によると平安時代中頃には石を積んで石塔とする行為が一般民衆に広がっていたと記されている。
本道から葛折りに50m下り広まった鉄柵に囲まれた場所、登り返すのがシンドイと思いながら下ってきたのに鉄柵越に見るだけなのかと思っていると鉄柵が紐で結ばれた箇所があり中に入ることができた(猪に掘り起こされない対策だった)
大きさ的にはショボいが16基あることに意味がありそうだ
三等三角点 中寺
折角なのでピークの三角点に登って見たが展望はない。下りのルートが2つ・・・・「右で間違いない」と思い込んで下りはじめたが、急な割になかなか本道と合流しない・・・・地図を確認すると違う尾根を下っていた。間違えた道を登り返すのはメチャシンドイ、分岐で確認を怠ると痛い目に遭うのだ!
三等三角点 中寺(753.5m)
仏ゾーン
中寺の中心の場所で仏堂跡と塔跡の礎石が残り下段に大炊屋があったそうです。人里離れた三岳寺のだったため建物内から10~11世紀の遺物が大量に出土したようです。
仏ゾーンの礎石
仏堂と塔のイメージ
祈ゾーン
中寺で最も早い時期から大川山信仰に根ざす活動が行われた場所で割拝殿と僧坊の礎石が残っている。僧坊跡から西播磨産須恵器多口瓶・中国越州窯系青磁椀・佐波理加盤・軒丸瓦・石帯などは当時として貴重な遺物が出土しており中寺はこれらの品を取り寄せられる有力な寺院であったことがうかがえる。
割拝殿跡の礎石
割拝殿と僧坊のイメージ
仏ゾーンから祈ゾーンを周回して展望台まで帰ってくることができます。
中寺廃寺跡は、平安時代の寺院遺跡としてよく整備された場所なのですが訪れる人は数少ない。実際のところまんのう町内に住みながらこの場所を知ったのは極最近のことでした。まんのう町として立派なパンフレットを作成しPR活動をしているようですがまだまだ認知度は低い。大川山や満濃池、塩入温泉とリンクした取り組みがあれば立派な自然スポットとなり得る可能性は十分あるのに遺跡だけでは弱いような気がする。
小さな町の教育委員会が大きな努力でなしとげた遺跡調査成果を生かせる方法を導いて欲しいと思います。
標高差:300m 遡行距離6.4km
江畑道登山口(450m)-展望台(640m)ー中寺(753m)-江畑道登山口
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